MATHOM-HOUSE presented by いもたこ

気になったことを色々と。ジャンルも色々。

【今週のお題】「カラオケの十八番」

今週のお題「カラオケの十八番」

 

私が大学3年の丁度今頃、私は1年上の、ある男性の先輩と一緒にカラオケに行った。

先輩は私の当時の交友関係の中では特異な人だった。周囲がカシオレだのビールだのを飲む中、ワインや日本酒の嗜み方を知っていたし、何より数少ない喫煙者だった。しかも、普段は「俺は貧乏だから」とよくある煙草を吸うのだが、本当は葉巻を愛する、およそ大学生とは思えない男だった。しかも多趣味で、ハードボイルドな雰囲気があるのだが、もし私が「ハードボイルドですね」などと言おうものなら、「食うか?」とか言って固ゆで卵を差し出してくれそうな茶目っ気もあった。

そんな先輩だが、如何せん小柄で、身長は女の私と同じぐらいしかない。そういうわけで、その雰囲気な割には声がやや高かった。

 

一方、私はと言えば、実はカラオケにはそれなりの自信があった。ある時期声楽をやっていたこともあって、十八番こそないものの、ある程度の範囲であればまあぼちぼち歌うぐらいの歌唱力はある――と思っていたのだ。その日までは。

 

先輩が選曲したのは、映画『紅の豚』でおなじみ、加藤登紀子の『時には昔の話を』である。丁度このくらいが先輩の音域にぴったりらしく、普通にうまい。うまいのだが、ただうまいのではなく、魂を揺さぶるものがあった。「そうだね」という歌詞から、たまらない哀愁と、言葉に出来ない何かが漂うのである。そこで初めて私は気づいた。

思えば、そろそろ先輩は卒業する。この曲を選んだのは、そろそろ別れの季節が近いからではないだろうか。たまらない哀愁が漂うのも当然で、この曲は先輩そのものを表しているのではなかろうか。そんなことを考えながら聞きほれた。本当にうまかった。

そのあと、「お前の番だぞ」とマイクを渡されたが、あれだけのものを聞かされた後、何を歌っていいのか悩んだ。結局、サラ・ブライトマンの『Stand Alone』を選んだのを覚えている。

その翌月に、先輩は大学を卒業して、郷里に帰った。それっきり私は彼に会っていない。

 

それからというもの、私はなんとかあの曲を十八番にしようと練習を始めた。そもそも『Stand Alone』が持ち歌なぐらいのソプラノなので、音域的に厳しいという部分もあるのだが、それ以前にいくら練習しても、先輩みたいに歌える気はしない。気はしないのだが、それでも練習をしている。

 

というわけで、『時には昔の話を』をなんとか十八番にしようと、ここ数年、奮闘しているのである。先は長そうである。

【今週のお題】「卒業」

今週のお題「卒業」

 

何よりもまず、花粉症を卒業したい。

 

大学を卒業して1年になる。私の大学生活はやや不本意な形で始まった感は否めなかったが、4年後には満足して卒業することができた。

受験生はそろそろ結果が出るころだろうか。私は高校も大学も、行きたいところにはかすりもしなかった。それでも、(ある意味では妥協なのかもしれないが)それなりに楽しい学生生活を送ることができた。気落ちしている人も多いだろうが、満足度というのは必ずしも志望校に合格したかどうかで決まるものではないと思っている。

 

だが卒業して1年。本当に私の大学生活は正しかったのかと今更になって不安になっている。というのも、私の周囲を見ていても、学校で学んだことの真価が問われるのは、もっとずっと後のことなのではないかと考えることが最近多いからである。

ここで言う「学んだこと」とは学問とは限らない。通学、交友関係、アルバイト、ボランティア、留学、サークルなど全てがそうであり、また、それらをするかしないかという「選択」も含まれる。今になって思うと、私の大学生活は楽しかったが、選択肢はもっと色々あったような気もしないでもないのである。

 

そうやって考えると、卒業というのは、結婚がそうでないように、物事の終わりではないように思う。高校は中学で学んだことの実践の場だったし、大学は高校で学んだことの実践の場だった。

そうやって考えると、大学を卒業した今こそ、大学で学んだことの実践の場であって、卒業というのはひとつの通過点でしかないのではないだろうか、と思わないでもないのである。考えすぎだろうか。

和田英松『新訂 官職要解』(講談社学術文庫,1983年)

 

新訂 官職要解 (講談社学術文庫)

新訂 官職要解 (講談社学術文庫)

 

 

先生が唯一「買え」と言った本

予備校に通っていた頃、尊敬していた先生がある日、妙なことを言った。

 「大学の教科書は全部買う必要なんてないからね。べらぼうに高いモノを一方的に売りつけるのが先生たちの副業みたいなものだから。1冊で5桁とか吹っ飛ぶのよ」

先生は都内の某有名私大のご出身で、その中でも学業成績はかなり優秀な方だった。そんな人がこんなことを言うのだから、大学に入ったら教科書に用心しなければならないなというのは、大学入学前からずっと感じていた。

月日は過ぎ、恩師と同じ大学に進学することは叶わなかったが、私も彼と同じ専攻に進んだ。さて、どんな教科書を売りつけてくるだろう。――恐ろしくもあり、ちょっと楽しみにすら感じながら、私は大学に入学した。

 

唯一はっきりと専攻の先生に「買わされた」と言える本がこの一冊である*1。税抜1350円。文庫だと考えるとかなり高いが、少なくとも想像していたよりかはずっと安かった。ちなみにこの本ですら、先生が強く推奨しただけで、全員が買ったわけではない。

 「この講義ではこの本はあまり使わない。でも4年間の中で、歴史学にかかわるならきっと必要になる。買うべきだと思う」

それがその先生の言葉だった。そしてそれは成程、真実だった。

 

『官職要解』と私

この本そのものの知名度は"界隈では"非常に高い。どのくらい高いかというと、Wikipediaに記事があるぐらいである*2

初版は明治35年(1902)、この本が底本にしているのは大正15年(1926)版であるから、内容的には90年も前のものということになる。そもそもこの講談社学術文庫版自体、昭和58年(1983)の出版なので、結構なロングセラーということになる。

 

著書名にある通り、主に官職について、豊富な出典を用いながら要解しているのがこの本である。対象は著者が緒言の冒頭で述べているが、少し引くと、

国史を学ぶには、昔の官職のありさまを知らねばならぬのはもちろんのことであるが、国文を学ぶにも、官職の大体を心得ておく必要があるのは、いうまでもないことある。 (p. 3)

ということで、当時の私のように日本史学を学ぶ者や、日本文学を学ぶ者向けということが分かる。

 

私が最初にこの本を読むきっかけになったのは、史料読解で官職名が読めないせいだった。例えば掃部介は「かもんのすけ」と読むのだが、そのあたりが怪しく、何だかわからない百官名が出てくるたびに引いたものである。

それがそのうち、別の意味でひやりとさせられることが増えてきた。例えば関東管領の説明には、「尊氏の次子基氏の子孫が代々この職を襲っていた。(p. 234)」とあるが、一般にこの説明で思いつくのは鎌倉公方(もしくは関東公方)であって、関東管領と言えば上杉氏が思いつくのではないだろうか。

これを更に読み進めると、ある時期に関東管領が公方になり、執事が関東管領と呼ばれるようになるというややこしいことが起きたのだということがわかる。これを知ることで、「関東管領」という文字を見たとき、少し慎重になれるのではないのだろうか。

 

そういうわけで、私は4年間、ずっとこの本を鞄に入れて通学していた。そういうわけで、正直擦り切れるほどに使い込んだわけではないのだが、いい感じに使用感が出てきて、なんだか長年連れ添った相棒みたいになってきたのである。

 

前近代人の前提知識

先述の通り、著者は同時代史料を豊富に提示しながら官職を説明している。

また逆説的に、この本の出典になっている史料を読むためには、この本の知識、すなわち官職への理解が前提条件となっている。

 

義務教育の導入は知識の均等化をもたらしたが、前近代の知識層においては、義務教育に近い漢籍や知識が存在していた。

彼らのことを知りたいのであれば、我々も彼らに倣って学ばなくてはいけない典籍類がたくさんあるのであろう。そんなことを思い出させてくれる1冊である。

*1:学生時代は色々な学問を少しずつかじっていたので、他の学問領域では実はこれ以外にも教科書はあったが、大学自体が良心的だったのか、「一度も開きもしない教科書」や「とても手が出ない本」は4年間で1冊もなかった。

*2:また、この本を取り上げた先達のはてなブログも多い。

マイブームはニッポニカ

よく趣味で歴史書を読むのだが、困ったことにあまり知識がないので、しばしば前提知識からして不安になる。

一般に、日本史のリファレンスとしては吉川弘文館国史大辞典が用いられることが多い。私も学生時代にはお世話になったのだが、学者でもないのにあれを家に置くのは難しいし、勿論我が家にもない。

そうなると、図書館で本を読むという話になるが、困ったことに近所に、国史大辞典やそれに類する規模の歴史辞書を置く図書館がない。かといって遠出するのは金銭的負担がかかるし、やる気を損ねるという話にもなる。

私の電子辞書にも定番中の定番であるブリタニカやマイペディア、吉川弘文館の日本史小辞典などは入っているが、しばしばその範疇を超えた語も出てきてしまっているのである。

かくなる上は、お手軽で知られるWikipediaというのもひとつの候補にはなる……が、その信憑性については言うまでもない。ちなみにジャパンナレッジはお金がないのでまだ導入していない。

 

そんなある日、偶然知らない単語を調べていたところ、コトバンク日本大百科全書(通称ニッポニカ)が引っ掛かった。

ニッポニカは小学館の大百科で、ジャパンナレッジにも収録されているのだが、10万語以上を収録し、買うと25万円にもなる*1。これが無料で使えるというのだから恐ろしい話である。1994年に完成しているので、最新の学説を追うという意味では苦しい点もあるかもしれないが、それを言ったら国史大辞典はもっと古い。

 

このニッポニカの素晴らしいところは、国史大辞典と同じように、項目毎の執筆者名が入っているのである。

例えば関東管領だった上杉憲実の項目は田辺久子氏が担当しているのだが、氏は人物叢書で『上杉憲実』を執筆した研究者であり、(正直日本史学以外はもっと詳しくないので何とも言えないが)適切な人選がされていると分かる。というか、そう信じたい。

 

最近私は、巷で大ブームになっている(?)呉座勇一氏の『応仁の乱』(中公新書、2016年)を読んでいるのだが、春日社白衣神人=国民(p. 9)という説明で早速、「国民」という語が引っ掛かり、調べてみたところ、

国民(日本史)

本来は国衙領の農民の意味であり、また中世期には住民のうち、とくに上層自営民をもさした。しかし、これらが南北朝時代から、さらに力を養うと、支配側の勢力に反抗する者として現れてくる。大和国奈良県)においては平安朝以来、興福寺が大和一円の領国化を図り、国内の有力名主を配下とし、春日社、興福寺末社・末寺を掌握して、彼らをその神主や住持とすることによって、勢力拡大を図ったが、これらの人々を国民とよび、一時代前からおもに北方大和にあって荘官・荘司の身分で法体となった衆徒と対称せられるに至った。(後略) [平井良朋]

という項目を発見した*2

 

個人的にはやはり国史大辞典にあたるなり、別の歴史書や論文を読むべきだろうとは思うのだが、まあ便利なものを見つけたものである。

*1:日本大百科全書 | ジャパンナレッジ

日本大百科全書(ニッポニカ)収録キーワード一覧 - コトバンク

*2:つまり、『応仁の乱』の時代には確かに白衣神人=国民という理解で間違いないが、前提条件として古代から「国民」はおり、むしろ「国民」が神主などにされた結果、白衣神人=国民という理解になった、ということが分かった。

【今週のお題】「何して遊んだ?」

今週のお題「何して遊んだ?」

 

ゲームのことで言うと、ポケモン全盛期より少し遅れて生まれたので、幼少のみぎりは金銀で遊んでいたし、小学校ではポケモンは我々の必修科目だった。

 

これが恐ろしいことに、大学生になってもポケモンは必修科目のままだった。留学生との飲み会に臨んだ時、話題がポケモンで持ち切りだったのだ。

ちなみに英語版と日本語版では、ほとんどのポケモンは名前が違う。"What's your favorite?" と訊かれた時、英語名がわからないであれば、全世界共通のアイツ、ピカチュウと答えておけばハズレがない*1

 

それどころか、なんと今でもポケモンは我が家の必修科目である。父も母もポケモンGOにはまってしまったのだ。

*1:ちなみにライチュウもRaichuである。赤緑世代151匹の中で、ピカチュウよりもう少しひねった回答がしたいのならばこっちもアリだろう……と個人的には思う。

【今週のお題】「新しく始めたいこと」

今週のお題「新しく始めたいこと」

 

ずばり、乗馬

 

実は5年ぐらい前から、節目節目に言い続けてきたのだが、不思議とチャンスがない。ライセンスの5級でいいから取得をして、どこかで馬に乗りたいのだが、乗馬クラブを予約するところまではいくものの何故か急な予定が入ったり、高熱を出したりして、全くうまくいかないのである。

もしや、私は馬に乗るべきではないだろうか。

 

きっかけは昔、偶然地方競馬を見たこと。あそこまで全力で駆けるつもりはないが、普段より少し高いところからものを見たいという気分になった。

 

今年こそはチャンスが……あると良いのだが……。

日記愚考――文献史学の立場から

理系科目も英語も、あるいは(政治経済の)経済分野も成績がいまいちだった私は、何故か法学部に進学にしようという選択肢は選ばず、早い時期に文学部への進学を決めていた。

文学部というと、就職の役に立たない学部ナンバーワンとして私の高校でも有名だったし、確かに卒業した今でも、あまり自分の学部の知識が役立っているという自覚はない。

そういうわけでなんとかある大学の文学部に潜りこんだ私は、ひたすら教養とやらを追い求めることにした。要は、飽きっぽいから色々な分野の講義を受けることにしたのである。

そうした中で出会った学問のひとつが文献史学である。俗に歴史学と呼ばれる分野の主流で、古記録や古文書から過去のことを考える学問と言えば分かりやすいだろうか。

 

大学を卒業して、私は日記を書き始めるようになった。理由は特にないのだが、1年も続けると立派な習慣になる。

diaryに対応する動詞はwriteではなくkeepが一般的なのだが、毎日のささやかな積み重ねが、やがて膨大な個人史になり、それらを束ねることでその時代を解き明かす鍵になるということは文献史学から学んだ。

自分が歴史の変わり目に生まれたという自覚はないが、一応そういうこともあるのだからと考え、日記にも自分のことだけではなく、最近のニュースで気になったことなども書き留めるようにしている。おまけに、執筆にも万年筆の古典インクと、残りやすいものを使うようになった*1

 

だが、最近ふと思うのは、どれだけ真面目に記録をとろうと、燃えてしまえば灰になるという点である。一般に日本は王朝交代がなかったといわれるため、遺物の伝来性が高いとされているが、私みたいな一般庶民の日記、しかもアナログな日記が、果たして私の死後も遺るのだろうか?

かくなる上は歴史に名を遺す偉人になるしかないと思い至ったわけだが……それこそ無理難題のようなものである。

*1:本気で"遺す"つもりなのならば顔料インクの方が保存性は高いということは知っているが、なんとなく古典ブルーブラックを使っている。