Microsoft Office Specialist Word 2013
先日、MOS Word2013に合格(98%)したので、思い出しつつ書いてみることにする。
目下転職活動中なのだが、私の場合、やたら問われるのがMicrosoft WordとExcelのスキルである。
Excelについては履修科目の管理ぐらいしか使ったことがないので自信があまりないのだが、Wordとはかれこれ10年来の付き合いで、卒業論文という戦いも一緒に走り抜けた相棒なので、腕はそれなりだと思っていた。
しかし如何せん口頭で説明しようにも嘘くさい上に、Wordの知識そのもの独学なので、ここでひとつ体系的に勉強してみようということで、暇な時間を使ってMOSの勉強をしてみることにした。
そもそもMOSとは
MOS(Microsoft Office Specialist)の略。Microsoft社のソフトの操作スキルについて認定する資格試験で、WordやExcel以外にも文字や記号を無駄に回転させたがることに定評があるPowerPointなどソフトウェアごとに種類がある。
WordとExcelについてはSpecialistとExpart(Part1、Part2)の2つのレベルがあって、Specialistは(その名に反して)一般向けクラスだったりする。
1000点満点中、合格点は650点~850点の間のどこかに設定されている。この手の試験にありがちな話だが、9800円+消費税と受験料がやや高い。
現行のWordの最新モデルはWord 2016だが、今回2013を選んだのは、後述する通り、家族のパソコンに入っていたOfficeのバージョンが2013だったため。
使用教材&勉強方法
Microsoft Office Specialist Word 2013 対策テキスト& 問題集 改訂版 (よくわかるマスター)
- 作者: 富士通エフ・オー・エム株式会社
- 出版社/メーカー: FOM出版
- 発売日: 2015/06/10
- メディア: 大型本
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よくわかるマスターMicrosoft Office Specialist Word2013対策テキスト&問題集(FOM出版)
「ネットで調べたら定評があったから」というミーハーな理由で選んだが、試験会場に選んだオデッセイコミュニケーションズ社にも置いてあったぐらいなので、恐らく本当に定評があるものと思われる。持ち運びには向かない。
ちなみにFOM出版からはMOSを対象としていない「基礎」と「応用」という本も出ており、「基本操作の習得には、次のテキストをご利用ください」とアナウンスされているが、Lesson1の内容が「新しい文書を作成できる」なので、Wordに多少触れたことがある人ならばこの1冊で事足りるのではないだろうか。
ちなみに、おまけの学習スケジュール表が結構便利。
現在使っているパソコンにOfficeが入っていない上に失業中でOfficeを導入する余力もなかったため、今回はOffice2013が入った家族のPC(Windows10)を借用。CD-ROMはWindows10でも動作するが、試験本番はタッチタブはないので注意が必要。
私の勉強法は我ながら全く面白みがなく、気になったところを色ペンでぐりぐりしたり、メモを書くだけ。例えば「デザインとスタイルを混同しないこと」みたいな感じで。だがとにかく、手を動かしながらの方が絶対身につくはず。
はっきり言ってテキストの完成度が高いので、その通りやっていれば大丈夫な気がする。
感想
- 思っていたより知らない機能が多かった(PDFをWordで加工できることとかマクロとか)ので勉強になったが、表紙やラベルの作成など、Specialistレベルでは触れられない機能も多いので、これでWordのSpecialistになれたのかというと微妙。ただ、とにかくやらないよりはやった方が良いとは思う。SmartArt格好良いし。
- 試験は指示に従ってひたすら動かすので、「どうすれば効果的な文書が作れるか」は全く問われない(=応用力は身につかない)。
- (体感的には)模擬試験の方が本番よりやや難易度が高かったような気がする。
進捗記録 10時間41分
1日目(4月19日) 1-1~1-4。1時間30分。
2日目(4月20日) 1-4~2-1。1時間17分(通算2時間47分)。
3日目(4月21日) 2-2~2章章末。1時間26分(通算4時間13分)。
4日目(4月24日) 3章。59分(通算5時間12分)。
5日目(4月25日) 4章。44分(通算5時間56分)。
6日目(4月26日) 5章+模擬試験1(68%)。2時間8分(通算8時間4分)。
7日目(4月27日) 模擬試験2・3(86%)。1時間13分(通算9時間17分)。受験日を4月30日に決定。
8日目(4月28日) 模擬試験4(92%)。1時間24分(通算10時間41分)。
9日目(4月30日) 受験本番。982点で合格。
かかった費用 12744円+交通費
テキスト 2160円
受験料 10584円
今週のお題「ゴールデンウィーク2017」
今年は残念ながらゴールデンウィークがない。というのも、無職になってしまったからだ。逆説的だが、真面目な話である。
無職になればずっと休みだなんて、大間違いである。
無職になるとカレンダーが意味をなさなくなる。これは当然ながら、毎日が休日になるからだ。
だが、恐ろしいことに、毎日家で寝っ転がっているとそのうち罪悪感が湧いてくるし、経済的な問題も出てくる。後者はともかく前者については、アダムとイブ以来の人の子の原罪を思い起こさせる始末である。
実は私は、大学4年生の年に似たような経験をしている。この時は限界まで就活という名の予定を詰め込んだ結果、講義はほぼ無いのにも関わらず、1ヶ月の間に休日が1日の月が数ヶ月……みたいな状態を作り出し、結局秋にダウンした。
世にも珍しいセルフブラック企業である。
あの時の反省から、今回は意図的に休日を作り、平日は決めたことをやり、休日は徹底的に休むことにした。そういうわけでゴールデンウィークを”設定”してもよいのだが、仮にも無職の分際で一丁前に長期休暇をとるというのもいかがなものかと思うので、結局土日以外は平常運転するつもりである。
来年の今頃には、恐らく働いているものと信じたい。信じたいが、恐らく過去の自分の行いからして、「休みが少ない」だの「こんなのゴールデンウィークじゃない」だのと言い出すはずである。
だが、休みが長すぎるというのも問題、ということを忘れないでいたいものである。
今週のお題「部活動」
今週のお題「部活動」
私が合唱と出会ったのは、もう15年近く前の話になる。
楽譜が読めたら格好良いなぁというのが入部理由だった。
一生懸命練習して、美しい旋律が好きになった。
思い出すのは、2004年のNコン*1の課題曲、「未来を旅するハーモニー」の歌詞だ。
生まれたハーモニーは、どこかへ旅をずっと続けているという。
中学校では、廃部の危機迫る合唱部でパートリーダーを務めた。
歌うことと日本史が好きな中学生で、先生にも、「好きな科目があることは合唱の肥やしになる」と言われ、その言葉をよく守っていた。
高校は、合唱でそれなりに有名な学校に進学した。
だがある時、先生に怖い顔をされて、「勉強と合唱のどちらかを選べ」と言われた瞬間に糸が切れてしまった。
先のことも考えて「部活を辞めたいです」と言ったところ、「部活を辞めるか辞めないか、つらい方の道を選びなさい」と言われて、猶更戸惑った。そんな言葉で引き留められたとして、果たして私は良い旋律を奏でられるのだろうか。そう考えて、結局部活動から去った。
大学でもいくつかお誘いがあったが、なんとなくもう歌う気にはなれなかった。高校で言われた言葉が尾を引いていたし、忙しかったというのもある。
それでも、不思議なことが色々あって、何故か遠い異国で歌う機会があったり、やけに合唱に詳しい人と話す機会があったりと、合唱にかかわる話題には事欠かない。
あの日旅立ったメロディが、まだどこかを旅している証拠かもしれない。
ちなみに、結局それなりに長く合唱をやって、かつほかの楽器にも挑戦したが、何故かついぞ読譜はできず、代わりに旋律を少ない回数で覚える耳を手に入れたのだった。
今週のお題「自己紹介」
今週のお題「自己紹介」
前の記事で述べた通り、私は現状無職、いうなればニートである。幼稚園に入ってから最初の会社を退職するまでの約20年間、(浪人したこともなかったので)常に何かしらの所属を持っていたのだが、こうして社会から放り出されると、「自分とは何者であるか」を語るのがいかに難しいかがよく分かる。
できることなら無職になどなりたくなかったが、「自分」を構成している成分のほとんどが実は所属だったということに気づけたことは怪我の功名だったかもしれない*1。
そういうわけで碌な自己紹介はできないが、せっかくはてなブログからこうして機会をもらったので、自分の"好きな"物事を中心に少しだけ自己紹介をさせていただきたい。
好きな食べ物
これは最近気づいたのだが、私はあまり好きな食材というのがない。例えば「トマト料理であれば何でも好き!」という人がよくいるが、あまりそういった傾向はない。しいて言えば牡蛎は好きだが、何故か牡蛎フライは好きではない。
好きな料理は、(飽きっぽいので)松花堂弁当タイプの和食、ハンバーガー、ピザ、牡蠣鍋、オムハヤシ、シーザーサラダ、素麺、炒飯、鳳梨酥*2、アオサが入った味噌汁、あら汁、蛤の酒蒸し、茹で蟹、あとカフェイン+砂糖+牛乳の組み合わせ(配合はグリコのカフェオレ程度が最適)ぐらいだろうか。
ちなみに、パクチーだけはどうしても食べられない。
好きなこと
旅行
ひとり旅をこよなく愛しているが、旅行した範囲で言うとそれほどでもなく、特に海外経験はほとんどない。個人的に好きな都市は北から順に札幌、日光、宇都宮、鹿島、成田、渋谷、鎌倉、三島、京都。特に京都は結構好きかもしれない……が、何故か未だに貴船神社には行ったことがない。
食べること
小食だがエンゲル係数は恐らく高い。例えば揚げたての天婦羅や旨い寿司などには、財布の限りいくらでも散財したくなる。
積読
本を買うのが好き、という我ながら恐ろしいところがある。おかげで積読がとんでもないことになっている。
勉強すること
これは私は納得していないのだが、周囲に言わせると「私の好きなこと」らしい。しいて言うと、よく分からない資格や検定を意味もなく取ろうとすることはある。ちなみに今はMOSやITパスポートに手を出そうとしている。
ざっくり言うとこんなところだろうか。
ちなみにここまででざっくり1000字程度で自己紹介をさせてもらったが、ゆうきゆう先生曰く、プロフィールが長い人の方がうつ傾向が強いらしい、ということも書き加えさせていただく*3。果たして1000字というのは、長い方なのだろうか?
365の夜を越えて
熊本を襲ったあの大地震から1年になる。
私は九州から遠く離れたところに住んでいるので、直接その害を被ったわけではないが、あの日私の周りではどういった動きがあり、1年前の私は何を感じたのだろうと思って、2016年の日記帳の、4月14日のページを開いた。
真っ白だった。
私が日記をつけ始めたのは2016年1月1日からだ。この年、私は大学を卒業して、新社会人になる予定だった。いつか社会人1年目を振り返って笑うためというのも、私が日記をつけ始めた理由だった。
ところが、3月31日まで律儀に書いていた日記は、4月1日から夏までずっと白紙になってしまった。次に記述が出てくるのは春が過ぎて夏になった頃で、この日私は会社から休職を申し付けられ、自宅療養に入ったのだった。
それまで健康そのものだった新入社員の私は早々に身体を壊し、結論から言えば秋に復職には成功したものの、結局このことが原因で翌春には会社を去らざるを得なくなった。
先のことは分からないが、少なくともこの会社のことで、「社会人1年目を振り返って笑う」という日は未来永劫来ることはない。
2016年4月14日の私は、少なからず衝撃を受けたに違いない。きっと、東日本大震災の時のことを思い出し、またくまモンのことや熊本城のことを思い出していただろう。
だが、ひとつ言えるのは、あの時点で私は日記が書けない状態に追いやられていたという点である。「九州で大きな地震があった。」のたった一文さえ書けなかったのだから。
時間は平等だ。この365の夜の間には、様々な悲しみと喜びと物語がある。
1年前、日記が書けなかった新入社員だった私は、少なくとも今日という日に立ってみると無職になってしまった。一昨年の年末、確かな希望をもって2016年の日記帳を買った頃からは想像すらできなかったことだろう。
だが、去年があって、昨日があったように、明日があって、来年がある。
来年の私は、来年の日本は、来年の世界は、きっと去年の今日とも、あるいは今年の今日とも違う。そう、信じたい。
Netflix野武士のグルメお題「ひとり飯」
Netflix野武士のグルメお題「ひとり飯」
私は元来、ひとり飯が好きだ。(ちなみにひとり居酒屋も好きだ)
最近は「孤独のグルメ」の影響もあってか、ひとり飯に対する偏見というのも少なくなってきたように思うが、それでも女子のひとり飯というのは、あまり一般に受け入れられるものではないらしい。それは知っているが、それでもひとり飯が好きだ。
何も、大勢でいくランチが嫌いというわけではない。いつぞやひとり旅の記事を書いたときに述べたように、「大勢」と「ひとり」では趣が異なるので、これを比べること自体、間違っていると思っている。
そんな私が一番印象に残っているのは、大学の卒業が確定した日の夕方、都内のあるオイスターバーで生牡蛎を食べたことだろう。
私の大学生活は多くの人の支えあってこそのものだった。だから、この晴れがましい日も、誰かと一緒にご飯を食べる……というのも至極真っ当な心理だと思うが、前々からこの日は生牡蠣を食べようと決めていたのだ。しかも、ひとりで。
生牡蠣は人を選ぶ。私は好きなのだが、一度でもあたったことがある人は当然嫌悪するし、そうでなくてもあの独特の海臭さは、万人に受け入れられるものではないらしい。ただ、私に限って言えば、生牡蠣は好物だった。
だからたくさん食べたいのだが、コストも嵩むし、人前ではある程度の節制も必要になる。そういうわけで、晴れがましい日だからこそ、むしろひとりで食べようと決めたのだ。
案の定というべきか、その日お店には、追いコンと思わしき集団がたくさんいた。そんな中でひとりで食べるわけなので、流石に多少堪えるかとも思ったが、いざ食べ始めると、そんなことはすぐに忘れてしまった。気づけば、目の前に牡蛎殻の山が出来ていた。たまらない充実感がそこにはあった。
ひとりの時間の充実は、大人数で行動することへのアンチテーゼとは限らない。ひとりでご飯を食べる時は目の前の食事の味に集中できるし、大人数で食べる時は、会話を楽しむことができる。どちらか片方だけでは、つまらない。
そういうわけで私は、ひとり飯にはひとり飯なりの良さと嗜みがあるように思うのだが、どうだろうか。
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札幌のサーバルキャット
私が"彼"に出会ったのは、札幌の3月中旬にしては暖かい日だったらしい。
「出会った」と言っても相手は寝ていたわけだが。
先日、思うところがあって札幌を訪れた。
東京から空路でたったの1時間半とはいえ気候は流石に北海道のそれで、新千歳空港に着陸した時の気温は氷点下だったと記憶している。
北海道の動物園というとどうしても近年脚光を浴びた旭山動物園の名前が先に出るが、私の旅の目的地のひとつは円山動物園だった。
私は"広義の"博物館が好きだ。東京国立博物館に代表されるような狭義の博物館も好きだし、子供の時分はよく美術館に連れていかれた。科学館、水族館の類も(最近はなかなか赴く機会がないが)嫌いではない。
だが、実を言うと動物園も相当好きだったりする。
別に目的の動物がいたわけではない。強いて言えばせっかく北海道に来たのでヒグマのことが気になった。昔、野幌の北海道博物館に行った時、札幌市内でもヒグマの目撃例があると聞いて以来、「怖いもの見たさ」で見てみたかったのだ。
そんなヒグマには無事会えたわけだが、確かに怖かった。あれを柵の向こうではなく市街地で見てしまったら……と思うとぞっとする。そしてそれと同時に、都市と自然の共存の難しさを改めて考えさせられたりもした。
そんな中、ふと立ち寄ったキリン館で出会ったのが"彼"ことサーバルキャット*1のポッキー君だった。いや、年長者に「君」は失礼だろう。ポッキーさんと呼ぶべきかもしれない。
当初の目的であるヒグマより彼が印象に残った理由はふたつある。
ひとつは勿論、当時(少なくとも東京では)大注目だった例のアニメである。実は私は円山動物園にサーバルキャットがいるとは知らなかったのだが、意識せざるを得ない状況ではあった。
そしてもうひとつ。それは、彼が私とほぼ同世代で、恐らく私より幾ばくか年長だという点だった。ポッキー君は、国内最高齢のサーバルキャットで、今年推定24歳になるという。
我々ヒトの24歳は、子供とは呼べないにせよまだ若造だが、サーバルキャットからすればかなりの老齢で、現にポッキー君ももう自力で毛づくろいが出来ないのだと説明が書いてあった。もともと彼らは夜行性である。私が見に行った時も、イエネコよろしく丸まって眠っていった。
当たり前だが、博物館の展示室の湿度が厳密に保たれているように、動物園の展示室もそれぞれの動物にとって快適な環境に設定されている。そういうわけでキリン館も屋外(5℃くらい)と比べればだいぶ暖かいわけだが、何といってもここは札幌、一歩外に出れば遥かに白銀の山の端を望む北の大地である。
サーバルキャットは本来北海道とはかけ離れた環境に暮らしている。私は何も、本来の生息環境とは違うところで飼育する動物園という形態そのものの批判がしたいわけではない。ただ、彼は何か事情があって、他の仲間とは違う、札幌という場所で生きている。恐らく、ポッキー君自身が望んだわけではないだろう。ただ、とにかく彼は遠いさばんなちほーサバンナを離れて、札幌に生きている。
そこで私は少し視点を変えて、自分自身のことを考えた。
私は札幌の人間ではない。札幌は大好きだが、少なくとも現在、札幌での私の身分は「旅人」で、別に帰るべき家を持つ。勿論私は、最も生息域の広い霊長類として、状況さえ許せばいつでも札幌に暮らすことができるし、それはサーバルキャットが札幌に暮らすことに比べれば不自然でもなんでもないが、とにかく今のところ札幌では旅人である。
だが、そもそも私の家は、私の環境は、私の時代は、私が選んだものなのだろうか。確かに自分で選んだ部分も多々ある。幸運にも自由度の高い家庭に生まれたので、色々な事を自分で選んできた。
しかし、自分で選べなかったこと、選ぶ権利がなかったこともたくさんある。そしてこれは、私に限らず、誰でもそうだろう。例えばそもそも生まれる時代は選べないし、選んでみるまで結果がわからないものもいくらでもある。
そうやって大きい目で見ると、我々もポッキー君も大差ないのではないだろうか。少なくとも私の見たところ、ポッキー君は札幌での暮らしに不満はなさそうだ。大事なのは恐らく、他ならぬ自分が何故「札幌」で生きているかではなく、「札幌」でどう生きるかということなのだろう。
札幌での私は旅人だった。旅人は自由な存在だ。むしろ、故郷に戻っている時の方が、ポッキー君の境遇に近いといえる。
多かれ少なかれ、私たちは誰でも「札幌」に生きているサーバルキャットである。何故、他の誰かではなく自分が「札幌」に生きているのか、確かにそれも気になるが、大事なのは「札幌」でどう生きるかだろう。そして人生の先達は、いくらかの戸惑いはあったのかもしれないが、「札幌」で生きていくことを受容したわけだ。
などというどうでもいいことを考えながら、私はじっとポッキー君を観察していた。恐らく5分ぐらいそこにとどまっていたが、彼は目を覚ます様子はなかった。