日記愚考――文献史学の立場から
理系科目も英語も、あるいは(政治経済の)経済分野も成績がいまいちだった私は、何故か法学部に進学にしようという選択肢は選ばず、早い時期に文学部への進学を決めていた。
文学部というと、就職の役に立たない学部ナンバーワンとして私の高校でも有名だったし、確かに卒業した今でも、あまり自分の学部の知識が役立っているという自覚はない。
そういうわけでなんとかある大学の文学部に潜りこんだ私は、ひたすら教養とやらを追い求めることにした。要は、飽きっぽいから色々な分野の講義を受けることにしたのである。
そうした中で出会った学問のひとつが文献史学である。俗に歴史学と呼ばれる分野の主流で、古記録や古文書から過去のことを考える学問と言えば分かりやすいだろうか。
大学を卒業して、私は日記を書き始めるようになった。理由は特にないのだが、1年も続けると立派な習慣になる。
diaryに対応する動詞はwriteではなくkeepが一般的なのだが、毎日のささやかな積み重ねが、やがて膨大な個人史になり、それらを束ねることでその時代を解き明かす鍵になるということは文献史学から学んだ。
自分が歴史の変わり目に生まれたという自覚はないが、一応そういうこともあるのだからと考え、日記にも自分のことだけではなく、最近のニュースで気になったことなども書き留めるようにしている。おまけに、執筆にも万年筆の古典インクと、残りやすいものを使うようになった*1。
だが、最近ふと思うのは、どれだけ真面目に記録をとろうと、燃えてしまえば灰になるという点である。一般に日本は王朝交代がなかったといわれるため、遺物の伝来性が高いとされているが、私みたいな一般庶民の日記、しかもアナログな日記が、果たして私の死後も遺るのだろうか?
かくなる上は歴史に名を遺す偉人になるしかないと思い至ったわけだが……それこそ無理難題のようなものである。
*1:本気で"遺す"つもりなのならば顔料インクの方が保存性は高いということは知っているが、なんとなく古典ブルーブラックを使っている。