365の夜を越えて
熊本を襲ったあの大地震から1年になる。
私は九州から遠く離れたところに住んでいるので、直接その害を被ったわけではないが、あの日私の周りではどういった動きがあり、1年前の私は何を感じたのだろうと思って、2016年の日記帳の、4月14日のページを開いた。
真っ白だった。
私が日記をつけ始めたのは2016年1月1日からだ。この年、私は大学を卒業して、新社会人になる予定だった。いつか社会人1年目を振り返って笑うためというのも、私が日記をつけ始めた理由だった。
ところが、3月31日まで律儀に書いていた日記は、4月1日から夏までずっと白紙になってしまった。次に記述が出てくるのは春が過ぎて夏になった頃で、この日私は会社から休職を申し付けられ、自宅療養に入ったのだった。
それまで健康そのものだった新入社員の私は早々に身体を壊し、結論から言えば秋に復職には成功したものの、結局このことが原因で翌春には会社を去らざるを得なくなった。
先のことは分からないが、少なくともこの会社のことで、「社会人1年目を振り返って笑う」という日は未来永劫来ることはない。
2016年4月14日の私は、少なからず衝撃を受けたに違いない。きっと、東日本大震災の時のことを思い出し、またくまモンのことや熊本城のことを思い出していただろう。
だが、ひとつ言えるのは、あの時点で私は日記が書けない状態に追いやられていたという点である。「九州で大きな地震があった。」のたった一文さえ書けなかったのだから。
時間は平等だ。この365の夜の間には、様々な悲しみと喜びと物語がある。
1年前、日記が書けなかった新入社員だった私は、少なくとも今日という日に立ってみると無職になってしまった。一昨年の年末、確かな希望をもって2016年の日記帳を買った頃からは想像すらできなかったことだろう。
だが、去年があって、昨日があったように、明日があって、来年がある。
来年の私は、来年の日本は、来年の世界は、きっと去年の今日とも、あるいは今年の今日とも違う。そう、信じたい。